弱めの宇宙人

みなさん、ある日、弱めの宇宙人が地球に攻めてきたと想像して、その時人類に生じる認識の変化を想像してみてください。

尖閣も竹島もイラクも北朝鮮も一瞬にしてどうでもよくなるでしょう。人と人との殺し合いを即座にやめて、いかにこの地球を守るかを考え始めるでしょう。

つまり現代の言葉で言う「世界平和」は、人類の認識の変化一つだけでも出来るのです。

私は、どうしたら人と人が殺し合うという愚かなことをやめて、人類が自らの手で滅んでいくのを防ぐことが出来るのかを考えてきました。私は40代研究者でこのページは怪しい宗教への入口でもありませんし、変な勧誘でもありません。

遺伝子は利己的ですから、人を殺したり、人のものを奪ったりすることはある意味、とても分かりやすく、当たり前なことです。その延長線としての戦争も。一方で、それだけ利己的な遺伝子、つまり自分が生きることしか考えていない遺伝子が自死、すなわち自殺をするという意味がわかりませんでした。

私は40代前半で妻と三人の子供を残したまま自殺(未遂)したことがあり、その謎の思いはさらに強くなりました。

また、人や動物や遺伝子と言ったところで、しょせん炭素や水素からできている有機物です。炭素と言えば例えば鉛筆の芯みたいなものです。そんな炭素や水素が、恋愛したり、企業買収したり、昇進レースに明け暮れたり、殺人したり、うそをついたり、裏切ったり、友情が芽生えたり、拝金したり、戦争したりするというのが不思議でした。鉛筆の芯が他人を愛したり、泥棒したり、他人を殺したりするでしょうか?

つまり考えるべき問題は二つありました。
(a)自分が生きることしか考えていない遺伝子がなんで自殺などする?
(b)元素に過ぎない炭素や水素が、意志を持っているように見えるのはどういうわけ?

最初の問(a)の答えを知ることには発想の転換が必要でした。私はこれまでずっと、世界には70億人の人が生きていると思っていましたが、そうではないんですね。そうではなくて世界には人間という一つのプログラムが走っているだけなのです。イメージしにくかったら、現代のコンピュータのプログラムを例えですが代わりに想像してみるとわかりやすいかもしれません。例えばDOSというプログラムを我々はDOSとしてとらえていて、あっちのDOSこっちのDOSというようには認識していません。DOSに多少のバリエーションがあってもDOSはDOSです。

人類も同じです。世界で70億の人が生きているのではなく、世界で一つの人間というプログラムが走っているだけなのです。そのプログラムは、コピーを残す、そのために生きる、生きるために外部から栄養を摂取する、ことにしか目的がなく、そのために、人を蹴落としてでも社内で昇進しようとしたり、ちやほやされると嬉しかったり、豊乳手術を受けたり、ライバル企業を買収したり、国土を争って戦争したり、馬鹿にされてかっとして人を殺したり、化粧をしたり、泥棒したり、性欲を抑えきれずに強姦したり、いい大学に入ろうと頑張ったりします。そうして同時に、このプログラムはもともと一つなので、個々のプログラムの生き死にはプログラム全体にとっては致命的なことではなくどうでもいいことなのです。プログラム全体(といっても一つのものですが)は、個人の死はプログラム全体の死を意味しないので、個々の生き死には興味がありません。ちょうどDOSが、とある端末から消されるか消されないかということはDOSという全体からすればどうでもいいことと同じです。ですから生きる条件が整わない個体の自殺はありうることになります。

実はこの「プログラムは一つ」という真実が、世の争いや苦悩のもとでもありますが、同時に、人類が生き残る可能性をも残している部分です。すなわち、プログラムは一つなので、他人の苦しみはすなわち自分の苦しみなわけです。他人はすなわち自分なのです。ここから世間で「同情」とか「共感」とか「友情」とか「博愛」などと呼ばれているものが生じます。窃盗や殺人を犯した時に感じる「罪悪感」もここから来ます。また、人類や他の人の役に立てたと思う時に感じる無上な喜びもここから来ます。自分は他人であり、他人は自分なのです。人類への貢献は自分への貢献です。他人を助けて感謝されることは自分を助けていることなのです。

この「プログラムは一つ」という概念は、何も人間に限ったものではありません。例えば猫の首が切り落とされるとか、馬の足が切断されるなどは、映像や、もう想像だけでも耐えられません。後で問(b)のところで述べるように、地球上で進化したものはしょせん「同一プログラム」のバリエーションにすぎないので、そこにレベルの差こそあれ同情や愛情が生まれます。そのようにして動物や植物も含め地上に生きおおせるものすべてを愛することになります。

問題(b)の答えはもう少し難しいです。答えを先に行ってしまうと「意志があるように見えているだけ」ということになりますが、実際、人は、一流企業に就職したいとか、今日は天丼を食べるぞとか、あの娘とエッチしたい、というのを「意志」と思っていますので、そのレベルにおいては、すなわち脳の活動という意味においては意志があるのですが、炭素や水素に意志があるわけではないので、その意味では意志があるように見えているだけ、です。

有機化合物を地球上に置いておくと、酸化作用や光の作用や放射線の作用などで、時間と共に「朽ちて」行きます。有機化合物が時間を超えて同じ有機化合物であるためには一定時間内に、すなわち朽ちてしまうより先に自己を補修し、かつ、どこかのタイミングで新たな部品で根本的に作り直す必要があります。ちょうど家と同じようなもので、しばらくは補修でつなぎ、補修では補いきれなくなる前に、家ごと作り直せば何年も何年も住むことが出来るようなものです。炭素原子の特徴は色々な元素と色々な形状で組み合わさることです。そういうものが無限の組み合わせで何億年も組み合わさったり分解したりしているうちにたまたま上記の条件を満たすものが出来た。すなわち外部の部品を使って自己を修復し、朽ちてしまう前に作り直しを行うもの、です。

一度できてしまったこの有機化合物は、時間を超えて上記を繰り返すことができます。従って、このパターンの有機化合物だけが「生き残り」ます。実際は生き残っているわけではなくて、そのパターンのものだけがそのパターンを繰り返すことが出来る、というだけです。そうして、このパターンのものだけがそのパターンを繰り返すことが出来るのでそのパターンを繰り返しているうちに、基本は同じなんだけど少しずつ違うバリエーションのものが生じます。これを我々は進化と呼んでいますが、単細胞なものがすべて死滅して複雑な生き物だけが地球上に生き残っているわけでもないので、進化というよりバリエーションでしょう。

こうして生き残っている、いや、今でもそのパターンを繰り返している、我々の言語でいうところの「生き物」と呼ばれる有機化合物の特徴は二つだけです。すなわち、外から部品を取り込んで自己を修復することと、朽ちてしまう前に作り直しを開始すること、です。我々はこの前者を、人間の場合は食欲と呼んでおり、後者を人間の場合は性欲と呼んでいますが、植物が水を欲したり、受粉するために甘い蜜で虫を引き寄せるのも同じことです。

人間はこのパターンを持つ有機化合物が複雑さを増してきた一形態にすぎないので、人間の行動はすべて食欲と性欲で説明がつきます。豊乳も強姦もズラも受験も戦争も、です。

従って、すべての人がここまで理解することが人類を自己滅亡から救うでしょう。「我々はしょせん同一のプログラムに過ぎず、そのプログラムは、外から部品を取り込んで自己を修復することと、朽ちてしまう前に作り直しを開始することで継続して存在しており、そのことが争いや苦悩の原因でもあるが、同時にそれらは同一のプログラムであるからこそ、他人の苦しみは自分の苦しみであり、他人の死は自分の死でもある。すなわち他人は自分であり自分は他人であり、そこに同情や愛や友情や平和という希望も生まれる。」というわけです。

このように考えてくると、苦悩のない真に平和な世界とは、そのプログラムが必要としていることを理解して、そのプログラムが必要としていることをさせてあげることだということがわかります。すなわち、「毎日必要な水や食料を摂ることが出来たらそれで十分に幸せなことであり、それ以上の搾取や富の貯めこみは不要であり行うべきではなく、性は罪悪などではなく根源的に幸福なことだと認識し、生き物は同一であり、他人は自分であり自分は他人であるを知って人を愛し、生き物を愛し、助け合い、感謝し合う生き方をするべきだ」という結論になります。

私もそうであったように、これらは普通に生きているだけではなかなか気がつきにくいことなので(特に他人は自分であり自分は他人なんだというあたりが)、人類生き残りのためには、人の教育の中に含めていくべきと思います。

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